PGA REPORT 101
PGA REPORT101 2010/3 No.101

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■小針春芳 1921(大正10)年4月29日、栃木県・那須生まれ。
16歳から那須ゴルフ倶楽部を一歩も出ず89歳の今日に至る。日本オープン2勝、関東オープン、関東プロ各2勝。戦争で10年ものブランクを挟みながら築きあげた金字塔である。日本ゴルフの草創期に生まれ、激動の時代を乗り越え築き上げた名手の足取りを語ってもらった。

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 体が小さいとボールが飛ばないとか、ゴルフには不利だとかいいますが、ゴルフは体でやるのではない。人間ならだれでもできる。ゴルフは考える力がある人間であればだれでもできます。
 実は私、逆立ちができません。あぐらもかけない、正座もできない、両手を肩の高さに開いてあげても肩より後ろへはいきません。生まれつき体が硬いのです。手首は20度くらいしか反りません。
 那須ゴルフクラブにキャディーで入ったのが16歳。仲間とみんなで逆立ちやると私だけできなかった。おかしいなと比べたら手首が曲がらないのですね。みんなは90度くらい曲がるが、私は手首が折れ曲がらないから壁に向かって足をあげることができなかった。
 だから本当にプロゴルファーとしてよく務めてきたと思っています。プロをやる体じゃなかったので工夫をし、頭を使った。結局ゴルフはボールのコントロールだから、自分の能力を生かすしかない。おかげで頭を使うことを覚えられたのが良かったのではないかと思います。
 私がゴルフを始めたのは国鉄に就職できなかったためです。中学を出て国鉄の試験を受けたら色弱で不合格になった。夢破れたときに那須GCが募集していたキャディーとして入社しました。色の識別ではゴルフを覚えたころにも苦労があった。当時はグリーンのマークは赤い毛糸を使用していたが、私には判別できない、それで私だけ黄色だった。でも色弱が人生を変えたようです。軍隊でも色の識別ができないため無線隊無線員でした。手旗が不適当でツートントンの無線士でした。ニューギニアで400人の部隊のうち生き残ったのは13人、その中の一人が私です。20代のほとんどが戦争でしたが、30歳を過ぎてゴルフに復帰して、これまで続けてこられたことに運命を感じます。ゴルフが私を生かしてくれたのだと思っています。

○「元祖・高いティーアップ」「クリーク(5番ウッド)の名手」「アプローチの名手」が小針さんに冠された“称号”だ。第2次世界大戦をはさみ長いブランクを経て苦労したプレーヤーを「大正生まれの5強」と呼ぶ。小針さん89歳。年齢でたどると戸田藤一郎の7歳下、中村寅吉の6歳下、小野光一の2歳下、林由郎の1歳上だ。これだけの名選手が並ぶ中で一線を維持する苦労は大変だった。元祖ハイティーは大先輩の宮本留吉プロから盗んだものだった。

 高いティーアップはけがの功名です。肩を痛めたときに、ティーを高くしたら痛みが出づらくなった。ドライバーの利点はティーアップを好きな高さに自分で選んでできることです。飛ばそうという気はそれほどなかった。体が小さいし飛ばないからアプローチ、パットを磨くゴルフを早くから目指していましたからね。インパクトがしっかりできればいいんです。
 ドライバーは得意クラブになりましたが、宮本留吉さんのドライバーショットから盗みました。宮本さんはボールからヘッドを離してアドレスしていた。ボールのかなり手前にヘッドを置き、そこでインパクト。こうしておくとインパクトの向きが決まるから曲がらない。昔の人はみんなフェースの向きが変わらない。インパクトを分かっているんです。肩を痛めているのでティーを高くしてインパクト。フェースの向きが決まっているから自然なアッパーになって惰性で当たるわけ。それが分かっておかげでドライバーは好きなクラブになった。飛ぶ方ではなかったが、当時のプロ70人の中では10番目くらいの飛距離でした。
 ドライバーショットはわたしにとっては一番優しいショットです。好きなようにティーの高さを変えられるし、インパクトさえ覚えれば曲げることがないクラブだと思っています。私は生涯でドライバーを左に引っ掛けたことは1度もありません。スタートホールのドライバーショットもまず曲げなかった。だから曲げて首かしげてる人をみると不思議でしょうがない。
 しかし、恥をさらすようですが、アイアンが下手だった。アイアンはまともに打てるのは9番アイアン以降、8番より前はきちんと打てなかった。3番アイアンはずいぶん練習したが、ついに打てなかったですね。で、その代わりに5番ウッド(クリーク)になった。ヤスリでウッドを削って5番ウッドのロフトにしたり、6番ウッドも作った。絶対に左に行かないクラブを作るわけ。ロフトがあるとひっかかるからひっかからないように作るわけ。バッグに入れ始めたのは戦後、1955年くらいです。
 アイアンが打てないからグリーンに乗らず、アプローチ、パットにスコアの比重がかかった。が、それでいい。アプローチを磨いておけばスコアはまとまる。そしてゴルフはやはりパットのうまい者が勝つのです。タイガーウッズの強さはパットのうまさです。尾崎将司もデビュー戦で一緒だったが、飛距離の出るのに驚いたのはもちろんだが、一番感心したのはパットのうまさでした。石川(遼)も最近、パットがうまい。パットがうまくなってからショットも良くなったね。パットがうまい人はインパクトがわかっているから、ショットもよくなるのです。

○小針さんは栃木県のプロ第1号。プロになったいきさつは石川遼並みのストーリー。1940年、19歳の研修生時代、那須ゴルフクラブで開催の関東プロ招待競技(1日36ホール)に出場。すると午前の18ホールで並みいるプロを抑え69のコースレコード。36ホールを終わって日本オープンチャンピオン浅見緑蔵とトップタイ。18ホールのプレーオフの結果惜しくも2位に終わったが、この大健闘が認められてプロに認定された。プレーオフも入れて1日54ホール。自分のクラブもなく貸しクラブでの好成績だった。石川に匹敵する衝撃をゴルフ界に投げかけたデビュー戦だった。

 でもプロ生活は、その年の12月に日本が戦争に突入し、プロとして2試合に出場しただけで兵隊になり、10年以上ゴルフができませんでした。軍隊で中国、ニューギニアと転戦し、復員後もしばらくは農業をしていて、約10年間クラブを握らなかった。プロとしてやるかどうか迷っていましたね。それが我孫子(千葉、1955年)の関東プロで優勝できた。当時は予選で16人に絞った後マッチプレーで争い決勝の相手は中村寅吉さん。下馬評は圧倒的に中村さんで一時3ダウン。大敗できないぞと寄せワンで我慢していたら4アンド3で優勝しました。この優勝でプロとしてやっていく自信がついた。34歳の時です。この時が私のデビューだと思っています。
 1957年には日本オープンを勝ちました。この年はカナダカップが霞が関で行われ、日本の中村さん、小野光一さんチームが優勝し、歴史的な成果をあげました。私は大会の直前、愛知カンツリーの日本オープンで優勝していたので、カナダカップに出てもおかしくなかったと言ってくれる人もいましたが、私のゴルフではとてもとても、中村さん、小野さんのパワーが何と言っても日本の力でした。大会中は、私はスコアラーをやりましたよ。サム・スニード、ジミー・デマレーのアメリカチームをしっかり見させてもらいました。
 2度目の日本オープン優勝は1960年、あの忘れもしない廣野(兵庫)です。最終日、最終組で小野さん、陳清波さんと周り、一進一退の末、陳さんが抜け出して私は2打差の2位。3位の小野さんと風呂に入っていると“陳さんがスコア誤記で失格だ”と大騒ぎになりました。マーカーの小野さんのあわてぶりは気の毒なほどでした。私も「スコア誤記なんてあるんだ」とほんと驚きでした。表彰式は落ち着きませんでした。

○カラミティー・ジェーンと小針さんのエピソードも運命的だ。マスターズの創始者で球聖と呼ばれたジョーンズが手にしたパターの名器で、小針さんも日本オープンなど数々のタイトルを手にしたことで知られる。パターとそれにまつわる話。“歴史”が動き出す。

 那須に雪が降る冬は埼玉県の霞ヶ関CCに修業に行ってました。研修生のときの話です。1940年、霞ヶ関のプロ室にほこりをかぶったパターがありました。ほかの何本かのクラブと一緒にあった内の1本がカラミティー・ジェーン。ヒッコリーシャフトにひびが入っていました。「これ使うって?」「こんなんでいいの?」うん、うんって、それが私の主力になったってわけ。関東プロ、関東オープンそして日本オープンも勝った時のパターです。
 それと同じパターはメンバーの藤田欽哉さん(コース設計家)が使っていて実にうまく使うわけです。うまいなあ、いいパターだなあ、と憧れていた。それが手に入っちゃった。いま思うと、あれに会わなければ私の今はなかったかもしれないと思ったりします。ハカリじゃないが、出る目と針が偶然あったりするというのかな。藤田さんとの出会い、霞ヶ関に研修に行かなかったらパターにめぐり会うこともなかったのですから、ね。
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