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| 「全国プロフェッショナル・ゴルファーズ優勝大会」の名称で始まった“日本で最も歴史のあるトーナメント”の第1回大会は、当時大阪毎日、英文毎日の記者だった豊川良之助氏の働きかけで実現した。その6年前に福井覚治が舞子カンツリー倶楽部のプロ兼キャディマスターとして採用され、日本プロの“プロ第1号”となったばかりの時代だったから、出場したのはプレーオフで師匠の福井を破って初代チャンピオンに輝いた宮本留吉ら6名だった。わずか6名の出場ではあったが、当時のトッププロが勢揃いした正真正銘の”日本プロ選手権”だった。
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写真左:1926年(大正15)茨木C.C.で行われた第1回日本プロ選手権。右から越道政吉、安田幸吉、福井覚治、村上伝二、関一雄、宮本留吉。
写真右:36ホールのプレーオフを戦った宮本留吉(左)と福井覚治。スコアは153対160であった。(第1回大会) |
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写真左:第6回大会を戦った浅見緑蔵(優勝・右)と陳清水。
写真右:宮本留吉(左)と戸田藤一郎(右)。 |
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大阪毎日新聞などが主催・後援して行われた初期の大会は、5回までストロークプレーで行われ。1931年の第6回大会から日本ゴルフ協会(JGA=1924年創立)が主催する競技会となりマッチプレー形式で行われるようになった。当時はまだ日本プロゴルフ協会は存在せず(1957年PGA設立)、日本ゴルフ協会がプロゴルファーの指導、管理を行い、関東と関西に地区プロ協会を組織させ、日本プロ選手権は日本オープン同様JGAの年間事業として行われていた。初代チャンピオンの宮本が手にしたのは、純銀のカップをはめ込んだ優勝額だけで、優勝賞金はなかった。賞金が出るようになったのは第2回大会からで、当時は優勝者だけでなく2、3位についてもプレーオフを行って賞金をきちんと配分していた。
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| 1930年の第5回大会では現在もまだ破られていない“日本最高記録”が誕生した。ホームコースの村木章(宝塚)が、初日からただ一人70台のスコアをマークして飛び出し、2位に19打差をつける”完全優勝”で初優勝を飾った。この19打差優勝はいまだ破られていないが、“不滅の記録達成”の裏側にはこんな事情もあった。2年前の第3回大会チャンピオンとして、その年の日本オープンを制して、当時のアマ優勢ムードをプロ優位の時代へと転換させる大きな役割を果たした浅見緑蔵(浅見勝一PGA元会長の厳父)が、兵役のため参加していなかったことと、東西の双璧だった宮本と安田幸吉がJGAの要請で来日中の米国人アマと親善試合に出場して不参加だったことが、大差優勝に拍車をかけることになった。 |
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村 木 章
1930年優勝 |
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ラリー・モンテス
1932・33年優勝 |
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87年からPGAが外国選手にも門戸を開放したが、それまで大会史上ただ一人の“外人チャンピオン”(台湾を除く)だったラリー・モンテス(フィリピン)は、ハワイで宮本、安田らに会って日本のゴルフ事情を知ったのがきっかけで32年9月に来日、その年の日本プロに出場してメダリスト-優勝の快挙を達成した。(注、メダリストとは、マッチプレーの出場者を決めるために行うストロークプレーによる予選で1位になった者。ストロークプレーのことをメダルプレーともいう。)
その後モンテスは霞ヶ関カンツリー倶楽部に所属、翌年の日本プロも制して大会史上初の2連覇を達成した。モンテスはその年の日本オープンにも出場して“2冠”を狙ったが中村兼吉に9打差つけられ2位に終わった。 |
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| “鬼才”といわれ数多くのタイトルを手中にして一時代を築いた戸田藤一郎の登場は35年。その前年、19歳の若さで関西プロを制覇した戸田は35年日本プロでも圧倒的な強さをみせて20歳の日本プロチャンピオン誕生となった。40年にはそれまでの記録(2連覇)を上回る3年連続優勝を果たしたほか、39年には日本オープン(6月)、関西プロ(9月)
、関西オープン(10月)を制し、“四冠王”がかかった10月10日〜21日の第14回大会(川奈・富士コース)で”戸田・宮本の川奈の決勝”の名勝負を展開、3-2でこの大会のメダリストで大先輩の宮本を下し“年間グランドスラム”を達成した。
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| 1939年(昭和14)第14回大会、川奈・富士コースの16番。2オンの戸田はこれを沈め、グランドスラムを達成した。
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